七十六日目



最近、製作が停滞している。

何か作業上で困難な問題に直面しているわけではなく、

単純に作業を行っていないのである。

モチベーションの低下とも少し違い、

作業をするという日課がなくなってしまっている、

というのが正確な表現だと思う。

少し時間が空いたら、

作業をすることを忘れていてそのままになってしまった。



とりあえずこの制作日記を更新することを念頭に、

少しでもいいので何かしていこうと思う。

でも今日はもういいかな……。

明日から本気を出そう。



今日はまぁ、そうだな。

また映画の話でもしようか……。

先日、「ボヤージュ・オブ・タイム」という映画を鑑賞した。



休日にふらっと映画館を訪れて、

何か面白い映画がやっていないかと物色していた私は、

ある映画のキャッチコピーに目をとめた。



「描かれるのは、宇宙の始まり―そして、生命の歩み」



宇宙、惑星の過ごす悠久の時間。

その永遠ともとれる静寂と、

そこから生まれた生命の本質を描き出す映画であると感じさせる、

鋭いコピーだった。

パンフレットの画像は、

白く、霞がかった、砂漠とも海ともとれるような画面の中、

どこか遠くを静かに見つめる、人間の瞳。

その孤独な、だけれど安らぎも感じさせる眼差しの美しさに惹かれ、

私はこの映画を見ることにしたのだった。

それが悲劇の始まりだった。



芸術的な映像だった。

光と影。時間と静寂。

惑星の鼓動、銀河の軌跡。

開始三十秒、

宇宙が作りだす、そのスケールと緻密さに、

思わず圧倒された。



開始五分も経った頃、もう飽きてきた。

だって、ずっとこんな調子なのである。

とりあえず綺麗な映像を見せられる。

ゆっくりそれが動く。

次の綺麗な映像を見せられる。

なんとなくそれが動いている。

ハイ次。



飽きないほうがおかしい。

腕時計を見る。

まだ十分も経っていない。

戦慄する。

これは時計仕掛けのオレンジか何かか?

画面にはGoogleで「背景 デスクトップ」と検索したら出てくるような映像がまだ流れている。

映像は確かに綺麗なのである。それはいい。

だが、ずっとそれが続くのである。

美麗シーンの叩き売りなのである。

途中で大して美しくないシーンが挟まれるのが退屈に拍車をかける。

こういうものはグーグルとかで検索すれば事足りるのである。



隣を見ると、横のおばさんは首を曲げて寝ている。

横のおっさんは眼鏡をおでこに上げて寝ている。

……おっさん、潔すぎなのでは?



惑星だけでなく、ミクロの世界もフォーカスされる。

命の歩みというくらいだ、さもありなん。

これで何度目かわからない受精シーンを見ながら私は考える。

いつになったら終わるんだ。

もう自然崇拝とかそういうのは、開始早々お腹いっぱいである。

母なる自然だとか、命の神秘も、もう飽きた。

私はあと何回着床シーンを見ればいいんだ。



激しい眠気に襲われる中、ナレーションは言う。



「母よ……私は目覚める」



なにを言っていやがる。こっちは眠りに落ちる寸前なのである。

さっきからナレーションが、母よ母よとしつこいのだ。

母なる自然の話はもういい。

さっさと親離れしてくれ。



終盤に差し掛かるとついにデスクトップ画像のスライドショーが終わり、

原始人時代が始まる。

私は絶望する。

野郎の乳首と尻がずっと移されるのである。

女の乳房が出たのはほんの数シーン、それも微笑みながら暮らす日常風景のみである。

これではエロスもへったくれもあったものではない。

しかもしまいには毛皮を着始める次第である。

ちくしょう!台無しにしやがった!

おまえはいつもそうだ。誰もお前を愛さない。



私は打ちひしがれたまま、劇場を出た。

ふと、キャッチコピーの下にある、

映画の宣伝文句が目に入った。


>地球上と天空の自然現象、またマクロとミクロの世界が、

>これまでにない多様な方法で表現され、

>観客は90分、未踏の映画体験をすることになる。



確かに、この映画は私を今まで訪れたことのない境地へと連れて行ってくれた。

そう、退屈の向こう側へと。



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