五十七日目



「虐殺器官」を鑑賞した。夭折した鬼才、伊藤計劃の遺した小説の映像化作品だ。
つい先日公開されたばかりである
。観る予定はなかったのだが、
他の映画を観に行った際にこの作品の予告編が流れていて、
興味を惹かれてホイホイと足を運んだのだった。
チケットを買って劇場内に入ると、席にはもう、びっしりと人が座っている。
私は感じた。彼らが発している、只者とは思えないその気配を。
誰もが何気ない素振りを装っているが、私には分かる。
この張りつめた空気……。
彼らが発する、
「やれやれ、伊藤計劃の作品を映像化だなんて、そんなこと出来っこないだろう。せっかくだからきたけれど、本当にこの私を楽しませてくれるんだろうね?」 
といわんばかりのオーラに、私は圧倒されそうになる。



しかし私も負けてはいない。
なにを隠そう、私は伊藤計劃のにわかなのだ。
伊藤計劃の作品は、この虐殺器官しか読んだことがない。
しかも、それとて「ふん、まぁまぁだね、でもSF作家って、すぐこういうキザな作品書いちまうんだから」と、
ひとつ鼻を鳴らして小説は二度と顧みない、というほどの、
にわかの中のにわかである。
少し伊藤計劃をかじっただけの、
いわゆる計劃おたく達なんぞに怖気づいているようではいけないのだ。



自分の席を見つけ、腕を組み、ふんぞり返って、上映を待つ。
ほんの少し空いていた席も埋まり、場内が暗転して、物語が始まる……。



戦争による死、不可解な紛争、そして、ジョン・ポールという男。
アクションシーンの迫力に息を呑んだ。
ストーリーの繋がりも、流れるように進行してゆく。
無駄を極限まで削り取って、
「こうなるしかない」と確信させる緻密な描写に驚かざるを得ない。
小説の記憶も自分の中におぼろげながらまだ残っているが、
ありえない程に再現されている。
どれだけ描写を捨てればここまで描けるんだろうか、と思わず身震いした。
一つ一つのシーンの影に、膨大な量の捨てられた可能性がある。
間違いなく、ある。



エンドロールの最後に、
制作していたスタジオが破産し、それを引き継いで完成させた、とあった。
よくこんな大変な作品、映像化をやり遂げたなと思った。
それほど高い完成度だったから。






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